2013年7月13日土曜日

学校を解体せよ ― 日本の学校は奴隷生産工場だ ― 教育の未来を想像する

CourseraのようなMOOCs (Massive Open Online Courses)と言われる無料オンライン授業が日本でも話題になりつつあります。先日の東京でのmeetupでは朝日新聞の記者の方が来て、記事にもなりました(僕も載ってますよ!)

私は、この数ヶ月でマクロ経済学のコースを修了しましたが、マクロ経済学のような抽象的でつかみどころのない学問は、独学だけでは学べず、授業を受けることが欠かせないなと思いました。私は、クルーグマンのマクロ経済学の本を読んでいるのですが、それだけでは深い内容は全く理解できていなかったと痛感しました。

私は学校教育が苦手で、ずっと独学で生きてきた人間ですが、書籍だけでなくビデオや宿題などから多面的に学べる講座というのは、独学よりもずっと有意義であるなー、と思いました。


しかしながら、このようにオンラインで学べる時代になると、もはや既存の学校という制度は必要ないことが明らかになってきたと言えます。

たしかに学校という大きな箱に子供を押し込めて教育する方法は、安価に幅広く教育を与えることができるという点で、人類の進歩に大きく貢献してきました。

いまや国民のほぼだれもが高校へ行く時代ですが、高校の教科内容というのは、改めて考えると、かなり高度な内容です。複素数、指数対数、微積分と言った内容を誰もが学ぶ時代などというのは、過去には想像もできなかったことでしょう。

しかし、もはや学校は過去の遺物です。

・学校教育の弊害

学校教育は、その弊害も明らかです。

まず「いじめ」という問題は、学校という狭い集団に人を縛り付けておけば、発生するのは必然と言えます。刑務所のように人を同じ狭い集団に縛り付けておくのは弊害があります。

優秀な教師を多く確保することは難しいですし、包括的に教育サービスを購入するという制度上、良い教師にインセンティブを与えることも困難です。

画一的なカリキュラムで集団に教えるため、人によって躓く点などが異なる点にも対応できません。

* 試験のために詰め込むプッシュ型教育から、実用のために必要な知識を学ぶプル型教育へ

いかに指数対数などが有用な概念であっても、一生それを実際に使うことがない人もいるでしょう。現在の教育課程というのは専門の研究者や技術者を育てるために有用な教育に偏重しているように思います。

また生徒が必要性を感じていないスキルを無理に詰め込むよりも、実際に必要性に駆られてから学ぶ方が、ずっと学びが大きく、知識として良く定着するのではないでしょうか。基礎的スキルを無理に詰め込むプッシュ型教育から、応用を意識したプル型のリーンな教育にすべきです。

すべての人をその画一的な基準で評価して、その点数によって良い教育が受けられたり、良い職に就けたりするというのが、フェアでしょうか? そのような制度があることで、損なわれる貴重な社会的価値があるのではないでしょうか。

日本人は「役に立たない知識を試験のために学ぶ」ということに慣れすぎてしまい、実際にリアルに使うために学ぶための能力が著しく低いように思います。

スタバやアカデミーヒルズでは勉強している人が多くいますが、ほぼすべての人が何らかの試験の勉強をしています。英語を学ぶ人はTOEICを、医学を学ぶ人は医師や看護師の国家試験を、会計を学ぶ人は税理士試験や簿記の試験の勉強をしています。

このような勉強法をやっていると、スキルを実際に使うために学習する能力が落ちてしまうことを憂慮します。試験で良い点を取ることと、スキルを実用することには、大きな違いがありますから。

* 奴隷を大量生産する日本の教育

なにより21世紀の日本での問題として、教師と生徒という権威主義的な絶対服従の人間関係の中で、ルールにがんじがらめにされて教育を受けることで、想像力や発明力のみならず、自主性や責任感や向上心を失った、奴隷のような魂の無い人間を生み出してしまうという問題があります。

自主性や発明力やリーダーシップが要求される知識社会において、日本の教育が隷従人間を大量に生み出していることは、日本の繁栄を大きく損なう事態です。

・学校の解体 ― 学校を自由化せよ!

教育制度改革などのアイデアをいろいろと投げかける人が大勢いますが、僕から言わせれば日本の学校教育というのは腐りきった奴隷生産工場であり、完全に解体するしかないです。小手先の変革など無駄です。

(他国の教育がどうなのかはよく知りませんので、他国と比較して日本が悪いと言っているわけではないです。絶対値として悪いということです。)

とにかく基本的には、学校にバウチャー制度と自由な市場競争を導入し、好きなときに好きな場所で好きな授業を受けられるようにすべきでしょう。

同じ学校に数年間行くことが前提ではなく、気に入らなければいつでも違う学校に行けるし、それどころか教科ごとに違う学校に行っても良いという世界です。

オンラインで完結しても良いことにすれば、僻地や病気の子供でも優れた教育が受けられるようになります。

それによって教育格差が拡大するのではないか、という声もあるかもしれませんが、現状では私立学校や塾などに行ける人が有利になっています。全体に市場競争を導入すれば、オンライン教育や反転授業などを利用することで、良質で安価な教育が提供可能です。

いまは定員や授業料などの問題で、優れた教育を受けられる人は限られていますが、CourseraなどのMOOCsが証明しているように、オンライン教育であれば、同じ授業を何十万人でも受けることができます。MITの超人気教授の授業を、モンゴルの高校生が無料で受けられるなんて時代を誰が想像したでしょうか。

本来は高卒などの認定をするカリキュラムや試験にも科目選択の柔軟性を認めるとよいのでしょうが、あまり他国の制度と違いがあると留学などに不利になるので、そこは制度設計の難しいところです。しかし自由化すれば、任意の科目などは増やせるので、いまよりはだいぶ自由になりますね。

オンラインで好きなときに授業が受けられる世界が到来すれば、ギャップイヤーなどの問題も自然解決します。中学や高校を出たら、まず働きに出て、それから足りないスキルを学ぶなどのプル型な学びも実現するでしょう。

英語教育なども当然すぐに問題解決ですね。英語圏をベースに集中的なオンライン教育する優れた教育ベンチャーなどが現れれば、英語教育の質など、すぐにでも十倍、百倍になるでしょう。

自由化さえすれば、教育問題は80%解決したも同然です。

なぜ世界でも教育の自由化に踏み切っている国が無いのか、不思議で仕方ありません・・・

1 件のコメント:

  1. 単位取得した子供が、公的に認可されて開講したり、単位取得基準制定定例会議に参加できるようになれば面白いと思う。
    (企業、政治団体など)人材を募集する団体は、採用前は個人の匿名化されたIDとその取得単位を無制限に参照する権利があり、またそれによって個人の自由、無制限に開講される科目のいろんな文化圏に応じた社会的ニーズを保つことができる。講座は受講資格のために必要な既得単位と分野によって種類分けされ、この2つのうち、既得単位だけが異なる場合、既出の科目に対しそれと区別できるような印を末尾につける(「国内史 200-800年の歴史」、「国内史 200-800年の歴史 02」みたいに)。

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